《くらし》蛇足の解説

くらし

食わずには生きてゆけない。

メシを

野菜を

肉を

空気を

光を

水を

親を

きょうだいを

師を

金もこころも

食わずには生きてこられなかった。

ふくれた腹をかかえ

口をぬぐえば

台所に散らばっている

にんじんのしっぽ

鳥の骨

父のはらわた 

四十の日暮れ

私の目にはじめてあふれる獣(けもの)の涙。

石垣りん『表札など』1968

 日記ではさんざん言ってきたことだが、とにかくこの1年は「借り」につきる。いろいろな不安、それも自分の情けなさから来る不安というものに1年耐えてみて、いよいよこれは無理だ、と思ったときに体が動いた。そこからどんどん人を頼ることができて、年の暮れになって「ああ、随分と借りたなあ」と実感がついてきた。ということは、力学的にはそこから自分のものを人に渡す段階に来たように思うが、この漫画を描いた頃はまだうすうす実感が湧いてきたあたりである。そういうわけであまり表立った軸はない作品なのだけれど、自分という人間の形自体はできてきたのではないだろうか。そういう漫画である。


 いきなり気の滅入る話で申し訳ないけれど、人が誕生日を祝われているという光景がどうしようもなく苦手で、理由は当然自分にはそんな人がいないから。もちろん八つ当たりなわけでそんな自分もいやである。そうなるとどんどん話が膨らんでいって、結局自分がこれまで生きてきて何も積み重ねられなかったという事実と対峙しなければいけない。そして始まる人生の反省会。

 何が足りなかったのか、何を獲得できなかったのか、何を手放してしまったのか……ということは、たぶん本当はあまり考えても仕方がないのだろうと思う。ないものを獲得するしかないからだ。いやなことを振り返って役に立つのは、自分に改善できるところがせめて認識できることくらいだ。残りは役にも立たないし気分もよくならない。それでも考えてしまうわけで、これは正解を知っているのに行動は一切正解をとれない自分の持って生まれた(あるいはそうなるように生きてしまった?)性なのだろう……それをやり続けてしまう自分のことは認めてやるとして、人にはある程度見せないようにするくらいはしないといけないな、と最近やっと分別が少しずつついてきた。

 ということで話が戻ってきて、自分は自分の誕生日のことをあまり考えないようにした。


 フジファブリックのセカンド・アルバム『FAB FOX』のラスト1個前(ラストはあの『茜色の夕日』である)に『Birthday』という曲がある。上記の決意を固めてからたった数日後にこの曲を聞いて、いきなり前言撤回、自分の誕生日ってやっぱり自分にとっては切っても切れんじゃないか〜、という結論になる。

心が二つあるなら

もう少しちょっと思いやりだって持てるよ

器用に使うよ

なんてね

昔なりたかった自分とは

かなり違う現実を見てる

よくある話かい?

だんだんきっと持ってる秘密も

増えるし重くなってく

気がするけれども

今日は特別な夜さ

素敵な夢を見れたらなあ

明日が待ってる

ゆっくり帰ろう

フジファブリック『Birthday』

 ここまでドンピシャで言い当てられると、年不相応に子供のように黙りこくるしかない。というか、自分のことが嫌いなのが本当である一方で、ある種の生存本能というか、自分のことを最後まで手放せないのもやっぱり自分である。多かれ少なかれ人はこの二極でうまくバランスを取って生きていくしかない。というわけで、

 「しかたね〜んだけど、生きていくぞ」

と、また志村正彦の言葉をパクりながら今日も電車に乗っている。6月に買った鞄は連日の圧縮によってすっかり型がなくなってしまった。


 そんな下敷きがあるわけなんですけれど、この漫画の男は例によって自分のようで自分ではない。具体的には自分は彼ほど真面目に仕事をしていないし、定時に仕事を終わらせられるだけの能力もない。だからこう、一つの理想というか、自分よりできる人間でも自分みたいなしょうもないことでうだうだ考えたりするもんなのかな……というような(アイドルもゲップをするのか、というような)ちょっと下衆な発想なんだろうと思う(決して自分は普段これくらい仕事ができますよ、ということではないのだ)

 個人的にこの16ページの中で一番ぼんやりしているのが、12〜13ページの描写である。『糸』中盤でも女の心情をあまり理解されなかったわけだけれど、まあ傍目に見てもたかが携帯の通知に怒ってしまうのって相当疲れてるよなあ、とは思わなくもない。思わなくもないんだが、とはいえ自分の本心でもある。なにがうれしくて気持ちのかけらもこもっていない祝福を受けねばならんのだ……そういうわけで、自分は店のお祝いサービスとかも苦手だし、人に見せたくないのと同じくらい風船が飛ぶのが苛立たしくてTwitterの誕生日も設定しない……そういう描写である。まあ、やっぱり疲れてますね……

 ほかはまあ、描かれたことが全てである。


 『文明』『糸』に続き、やはり高野文子のことを考えながら描いている。特に『くらし』の題であからさまなように、『美しき町』の要素がすごく多いと感じる。もろパクリになってしまうのが怖いので、この頃は少なくともネームの期間中は高野文子を読まないことにした。すると自分の考えていることがすっと自分なりの軌道に乗っていく、という図式である。……ところが、いざ完成した漫画は、たまたま夫婦で徹夜してしまった、というだけの一日を描いた『美しき町』を散々引きずっておいて、自分は誕生日というガジェットを使わないと話が作れなかったオチである。……ここまで模倣がヘタとなると、自分にとってはパクリと言われる方が技量が高いと言われているような気がする。言われたいかというと、絶対に言われたくないが……


 書籍版をお持ちの方にはご参照いただきたいのだけれど、16ページという短さに反してありえない量のあとがきが書かれている。こんなページ数にも、人ってそれだけ考えているんだけど、たいていの人は表に出さない余裕があって、自分は余裕がないからこんなにつらつら書いてしまっている、ということを読み取っていただけると幸いである。

 まああとがきにせよ、この文章にせよ、自分が言葉を尽くしてやりたいことは漫画の補強ではなく、漫画にかこつけた自分の補強でしかない。

(2021/11)