剣と魔法その疲弊

 昨日折角温泉から帰ってきたのに、いざもとの生活を見ると結局メンタルが沈んでしまった。

 よく、ファンタジー的なものを題材にした話は「辛い現実からの逃避」みたいな扱いをされることがある。僕はわりと動物好きなので、色々インターネットを見ているとそういうファンタジーものの話やゲームを発見したりする。そんでもって、おれは自分はわりと厳しい現実を生きているような気がしているわけであるが、食指が動かない。

 「辛い現実」からの逃避ということであるので、とうぜんその消費にかかる体力は現実より軽いものであるべきであろう。じっさい、「会社つらい。ゲーム楽しい」みたいな人はたくさん見てきている。ゲームの世界にのめりこむことに関しては、正直もはやでっち上げと言えない数の事例が上がっている。ファンタジーを理想現実として消費することは、別に逃避という消極的なワードで表現すべきものではなく、ごく普通のことである。それが人によって公営ギャンブルや麻雀、酒や風俗になるだけである。

 しかし、その事実がある上で僕はファンタジーものを喜々として享受できない。理由は簡単で、嫌いとかじゃなく、疲れるのである。というか嫌いなわけがない。キャラクタも魅力的だと思ったヤツらが沢山いるし。なのであるが、すごい単純な話として、現実世界からファンタジーの世界に行くのは、体力がいる。もっと正確に言うと、現実からファンタジーに行くのはまあそんな体力使わないんだろうけど、逆は恐ろしいくらい体力がいる。そんでもって、僕は現実の大学とか会社とか嫌すぎてファンタジーやってる人達以上に体力がない。

 僕は映画を観に行くと、いや金曜ロードショーで映画を観た時も、色々自分の世界に照らし合わせようとする。そこで実際の現実との齟齬を実感し、時に茫然自失とする。僕は現実への揺り戻しに対する耐性があんまりにもない。まあだからこそ温泉から帰ってきて3時間で死にたくなってたわけなんですけど。というか高々2時間くらいの映画ですらそれなのに、ましてファンタジーの骨太で笑いも涙も怒りも感動も全部ひっくるめた感情のデパートみたいなストーリーなんかに触れてしまったら、ストーリーで泣いたのにその後画面から少し視線をそらした先にあるキッチンの洗ってない食器が積まれたシンクを見てまたぼろぼろと涙を落としてしまいそうになる。それはひとえに僕が今のところ自分が主人公と思えるほどなんの技能も持ち合わせていなかったり、気の合う人を見つけられなかったりするような挫折から来る心情かもしれない。

 まあ長々と書いてしまったけれど要するに僕はあのデジモンの主題歌の『無限大な夢のあとの何もない世の中』に恐ろしい喪失感を覚える、それが恐いのであんまり現実世界以外の話を読みたくない、ということ。長い間デジモンも好きになれなかった。とうぜん、自分が選ばれたことなど一回もなかったからである。でも本当にそれだけの話だったら主題歌となんの因果もないわけで、勿論本当はあなたにもそのチャンスがありますよ的な話だったのだと気づくのに20年もかかってしまった。そして気づいてから呑み込むのにも長い時間がかかるのだと思う。そしてそれまでの間、僕は今までと変わらずに静かな、密やかな現実世界での生活を真摯に追う漫画や曲に浸り続けるのだと思うし、僕はそれがネガティヴな行為であるなんて思いたくもないのである。