フリクリオルタナの感想

 というわけでフリクリオルタナ観てきた。最終日だったねー…


 本題に入る前にオルタナのネタバレクッションがてらフリクリとはどんな話だったかというと、どこにでもいそうだけど若干自意識高めな小学生ナオ太がベスパ乗ってギターで殴るキテレツ女ハル子に出会ってすったもんだあった後に自意識を投げ捨てる話

 多分こんな話。

 違うっけ?(無責任)

 とにかく一番重要な要素は「自意識を捨てる」、つまり大人への背伸びをやめて子供然としようね、ということ。

 そういうストーリーラインの中でそれを阻むやつらとして出てくるのが歪んだ女子高生マミ美とかナオ太に執拗に大人の対応を迫るアマラオとかそこらへんなのだけれど、やっぱりマミ美がラスボスなのである。最終回のボスだったし。

 マミ美がどういう人物かというと、ナオ太の兄で野球で留学とかいうすごい才能を持ってるタスクに遠恋の末向こうで彼女を作られる形で捨てられ、その代替としてナオ太をまるで彼氏のように扱う女子高生。ナオ太の太で「たっくん」なんて呼んでいるがタスクのタであることなんて一目瞭然である。イニシエーション・ラブみたいですね。しかも学校ではいじめられているし、学校サボってタバコを吸っている。ナオ太も小学生なりにこの見るからに可哀想な女の子を守ろうとするんだけれど、マミ美が求めるのはタスクなので、(そうでなくてもタスクの弟としての自分を意識していただろーに)常にタスクと自分を比較してしまう(し、多分「俺って結局兄ちゃんの下位互換だな〜」とか考えちゃってる)。そして開幕のモノローグ「すごいことなんてない。ただ当たり前のことしか起こらない」になってる。

 つまり自分の力で現状を打開することが出来ない以上フリクリでナオ太が望んでいたものは外から現状をブチ壊しに来てくれる「すごいこと」であり、それがハル子(と愉快な仲間たち)だったということである。これ自分で打っててそうだっけ? って感じなんですけど大丈夫ですかね? とにかく、このようにしてメイン3人の御膳立がなされて話が開幕する。

 まあこういう設定で頭が限りなくスイートな結末だったらハル子の活躍によりマミ美をとりまく状況もなんか解決してナオ太の荷も降りてハッピーエンド! みたいなオチだろうけどフリクリはそういう話ではないので身体相応の子供でいることを選んだナオ太はマミ美を振り、「さよなら、ナオ太くん」と言い残しマミ美は一応の成長を見せつつ(要するに「タスク」の存在に縋るのをやめ)街を出て退場する。そしてナオ太はハル子に「まだ子供だから」とフラれる。外的なトリックスターであるハル子は消えてしまうが、同時にナオ太の持つ鬱屈の最大要因であったマミ美も消える。

 こうしてもう背伸びをする必要がなくなったナオ太ではあるが、別に彼をとりまく環境が前と比べてめちゃくちゃ変わったかと言われたら実はそうでもなく、ラストのモノローグも最初と同じ「すごいことなんてない、ただ当たり前のことしか起こらない」とか言っちゃう。でもハル子のおかげで(というと立役者みたいだが、要するにハル子に利用され尽くす中で偶然契機になっただけ)バットを振ることができる自分、でもタスクでもアトムスクでもない自分、というアイデンティを見出しつつあるのでもう大丈夫。ともかくそんな感じですったもんだあったけどやっぱガキンチョは素直に日常やるのが一番っすね! という締めくくり方がされる。……されるよね?

 ここまでが無印フリクリの話。


 さてオルタナ。

 正直なことをいいますと、アホだったので1話から「これフリクリなの?」みたいな気持ちが強く、それからずーーーっっとがんばってフリクリっぽさを探すというしょうもない作業をしては全然見つからね〜〜〜という感じになってもはや諦めかけてたんですが、5話でやっと気づいた。

 これ、「オルタナ」だったわ…

 おじさんは頭が悪いのでフリクリがpillows使っててギターが武器のアニメだから適当にフリクリっぽいロックジャンル持ってきて副題にしてるとしか考えていなかった。結論から言っちゃうとフリクリオルタナはフリクリのオルタナ、噛み砕いて言うと「フリクリ(固有名詞)じゃない方のフリクリ(一般名詞)」です。

 オルタナのハル子以外のメインは4人。主人公カナブン、主人公の一番の親友ペッツ、美女ヒジリー、大食いオシャレ・モッさんの仲良しJK4人組。

 第1話は本当に途中ハル子が突然登場して前作よろしくメディカルメカニカのメカと戦って場をかき乱しつつただ4人が楽しくロケット作る話であさりよしとお漫画みたいだった。(小並感)…まあ最後になんとなく、この世界を取り巻いている状況についてほんとうに不親切に解説される。ほかのところは懇切丁寧な癖に……えーと、で、2話と3話は若干脇役気味なヒジリーとモッさんそれぞれが抱える問題の話をみんなで解決するぞ〜! って流れになりハル子がメディカルメカニカのメカと戦って場をかき乱しつつ無事解決する話。第4話で主役カナブンにスポットがあたり、思いを寄せるクラスメート佐々木へのモヤモヤした恋心をハル子がメディカルメカニカのメカと戦って場をかき乱しつつ無事解決……って、

 ハル子がメディカルメカニカのメカと戦って場をかき乱してなくても解決してそうじゃない?(適当)

 4話まででオルタナにフリクリ(固有名詞)を求めていただいたいの人は無事脱落する。多分感想は「二度とこんなのフリクリとか言うんじゃねーぞ!」とかだと思う。

 だってフリクリ(固有名詞)じゃないですもんねぇ……

 固有名詞としてのフリクリらしさとはなんだったのかを考えてみる。最もわかりやすいのはアニメーション的な実験(突然漫画みたいになる、表現が前時代的になる、他作品の執拗なパロディなど)とか、全編から寄せ集めて考えないと全くわからない世界観とストーリーとか、そういうところだと思うし、実際そういう一番目立つ無印らしい要素はオルタナではほぼ完全にスポイルされており、基本的にアニメーションは視聴者にやさしく作られ、カナブン達の地球をとりまく状況についてもめちゃくちゃ懇切丁寧に登場人物の口から発せられる。わかりやすすぎる、というか、優しすぎる。辛いカレーを頼んだのに甘いカレー来た、みたいな感覚になる。そりゃ怒る。「カレーを作るならちゃんと辛いの作れ!

 でも、オルタナはあと2話残ってます。


 5話ではメディカルメカニカが例のアイロンをマジで動かし始めるんじゃないか、という話が地球全土を覆い、火星の移住さえ本格的に始まってしまう、という展開が起こる。無印でMMのアイロンが「星を真っ平らにする」くらいしか解説されず、ナオ太達も呑気でもう終盤の方なんか市街戦でしかなかったのに街も全然非常事態じゃなかったことを考えると、まぁ普通はパニックになるよね、となるが、無印を見ていると逆に普通にパニックが起こっていることに違和感を覚える。が、ここはそんなに重要ではないのでパス。どうやらペッツの家はイイトコなので4人の中でペッツだけが火星に行けることがわかるが、離れ離れになることを嫌がってかペッツは家に帰らない。そして1話でハル子が戦っていたロケット製作現場でペッツは1話のメカがターミナルコアになるのに巻き込まれターミナルコアと融合してしまう。そこにカナブンが駆けつけペッツを助けようとするが、ペッツはカナブンを「余計なお世話」と拒絶する。結局カナブンのN.O.によってターミナルコアは吸収されペッツは助かるが、ペッツと和解する夢を見るカナブンをよそに(ハル子も無印だったら絶対やらないが懇切丁寧に引き止めるのに)その場を去る。

 ココらへんで無印っぽさを求めていたのに無印っぽさが全然なくて落胆していたけどがんばって視聴していた人(=おれ)が「ん?」と思い始める。いやだって、これまでのペッツは4人の中でなんか目が死んでる毒入り知的枠くらいにしか思っていなかったのに、ここに来ていきなり無印6話のマミ美みたいな地位になってる。

 マミ美の歪んでいる様は無印1話からめちゃくちゃ丁寧に描かれているが、ペッツの家庭の様相とペッツ出奔の原因が明らかになるのは5話ぶっつけであって「いや突然想像以上に重めのやつぶっ込まれたな!」という気分に。そして何より、これまでなんかカナブン世間知らずというか無垢すぎて心配になるけどまあハル子もいるしなんとかなるでしょ、この4人ズッ友だし、くらいに予想していた(というか若干諦めていた)おれはそれがいきなり拒絶され(まあ拒絶のされ方はありきたりだと思うんですけどね……)解決しないうちに5話が終わってしまうのでビビる。だって、4話までずっと、なんというかぬるま湯な感じでゆるゆる女子高生ライフやってきたじゃん、それを何よいきなり、みたいな気分。それでもまだ、いや〜まあなんだかんだ言って殴り合いとかでスッキリ解決! で着地してしょーもな目のアオハル・アニメーションになるんやろ? と疑わざるを得なかったわけ、だったのだが……?


 6話。MMのアイロンに(ターミナルコアは前回吸われたので別の?)手がのび、ついにアイロンが握られる、という無印を超えた展開が起こる。一つ苦言を言うと、ここの手はCGなんですが、実写加工を取り込んだ無印の方がセルルックでよかったです。まあそれはともかく地球は終末ムード満載で火星の移住ロケットもバンバン飛ぶ。第1話で自分たちで作ったロケットを打ち上げた浜辺に3人は行き、飛ぶ移住ロケットを見ながらペッツにさよならを告げるが、カナブンは言えない。そりゃそーだ。ここでご丁寧なことにハル子がやってきてカナブンのN.O.を発動させて真っ平らにされる地球をなんとかしようとする。そうしてマジで地球を平らにし始めるアイロンにカナブンは立ち向かい(アイロンは本当にアイロンでしたね……)、ペッツへの思いを(西野カナの語彙で尾崎豊の世界観を歌った感じの青臭さで)叫びつつクソデカN.O.、というかほぼブラックホールみたいなのを作り出してなんかいろいろ全部吸い込んじゃって、アイロン以外を再構成。ハルシオン・ランチ? 最後は元のように学校へ行くのだが、もうそこにはもちろん火星へ行ってしまったペッツはおらず、3人しかいない。胸は痛いままだけど、今はいつか終わるみんなとの日々を精一杯楽しみたい……おわり。

 …ペッツ火星行っちゃったね……。

 4話までのぬるま湯極まりない流れからすると、6話でペッツがちっとも出てこず和解のワの字も出てこないことにとりあえずビビる。というか、結局離れ離れエンドでもラストは搭乗ゲートで(ありがちな展開)ちょっとおセンチにお互い謝罪したりするもんだろう、とおれは思うわけである。「所詮」フリクリのなり損ないだもんな、と思っていたから。ところが全然そんなことなく、ただカナブンは一方的に別れられ、届きそうもない思いを叫んで、一人で気持ちを整理せざるを得ない。ここに来て突然のクソでかい感情


 カナブンは正直言ってアホである。いやよく読んだらアホとかではなくて本当にアホなので4話までの展開でも観てる側がうわ〜〜〜無垢すぎて見てられへんという感じになる。でもカナブンがなぜアホかというと、それはカナブンが現状にけっこう満足しているからにほかならない。ナオ太はタスクの代わりになろうとしてもなれず、それで苦しむならいっそという感じでバットを振ってみることすらできずにず〜〜っと大人と子供の間で自分の立ち位置を求めてうろうろしているのだが、一方カナブンはペッツ、ヒジリー、モッさんという3人の親友に囲まれてロケット作っちゃえるし、それぞれの問題も解決できてしまう。これ以上の打開がなくても、カナブンの日常は満ち足りている。この前提状況がもう無印と異なる。

 ナオ太は非日常を渇望していたが、カナブンは日常が続くことを望んでいる。だからナオ太にとって1話からハル子に生きている世界をブッ壊されてしまうことはカタルシスでしかなかったし、結局ハル子の鉄砲玉でしかなかった現実で概ね最悪メンタルになってたところにハル子がふらっと帰ってきた6話では学校もほっぽり出してハル子と街を飛び出してしまう(DV彼氏を好きになる心理か?)。一方でカナブンにとって、世界をブッ壊されてはたまらない。MMの計画が発動し火星に移住してペッツと別れてしまうことは日常の崩壊であり、そしてペッツには4話までのような「いつもどおりの」あーぱーな説得はもう通じず、日常はこの時点で修復できない。おれはバカなのでイントロダクションの「毎日が、毎日毎日続いていくと思っていた・・・ 」という文字列すら見ていなかったんですが、そういうこと。

追記…無印を見ている人からすれば1話から外観だけが執拗に出てくる巨大ショッピングセンターがアイロン(的ななにか)であることはもう一目瞭然なんだけれど、ナオ太らのフラストレーションに呼応するように煙やサイレンをぶっ放していた無印と同様、外連味は微塵もないが主人公が日常に満足してる間はアイロンを地方都市の「終わり」の象徴に擬態させていよいよ局面が怪しくなってくるとアイロンの姿が露わになるところはかなりいい描写だと思うし、この表現は正直無印と肩並べるんじゃないかな。というかプログレのアイロンの扱い最悪だったんで…)

 ナオ太は6話でアマラオからマミ美を守ることを勧められる。マミ美はタスクの代わりを求めるから、ナオ太がマミ美を守るならそれ相応の大人さが必要となる。だが結局ナオ太は大人のナリをしているのに子供のような振る舞いを起こすハル子に「好き」という。結局ナオ太は身体に相応しい子供でいることを選ぶのである。告白の直前、アトムスクと融合する前にターミナルコアに食われアイロンの手と同化するときのマークも「小人」であり、ナオ太の選択が明確に示される。一方でオルタナ6話でNOを発動する前のカナブンの額には「大人」のマークが浮かぶ(ちなみにカンチにアトムスクが発現する時に出る大人マークと同じ)。カナブンはペッツに明確に別れを告げ、親友が一人いなくなった世界に残る。一人きりだったところに幸せな日常を与えてくれた親友と別れ、一つの日常が終わってしまうことに痛みを感じながら進んでいくことになる。真逆ですね。


 だからだらだら誰でもわかりそうなことを並べてきたけど結局はフリクリオルタナは無印としてのフリクリでは一切ないが、展開と過程はだいたいフリクリと同じなのでフリクリであり、描かれるものは対照的なのでオルタナティブ、オルタナである、よってフリクリオルタナの名に偽りなし、ということになる。

 これに気づいたのが5話ってのがちょっと遅かったよね……

 でもまあ、4話までは本当に冗長(に見えるように見せてるの半分、脚本が本当に冗長なの半分だと好意的に解釈したいな〜)なので、ここで気づいてる人偉いと思う。

 ハル子は本当にトリックスター的地位を失ってアフォリズムねーちゃんと化しているし、アマラオ的ポジションだろう神田もなんかパッとしないが、多分これはキャラをスライドしたはいいものの子供が大人になるストーリーをやる上でみっともない大人ガキンチョ精神のねーちゃんを持て余したからですね……。結局のところ、カナブンに筋道を示してやる存在としてハル子の(大体の人が無印時点で思っていたような)人物像は不適格だった、という感じ。

 じゃあフリクリでやるなよって話だけど、フリクリのタイトルでやらないと無印見てた人に冷や水あびせられないからね。しょうがないね。

 にしてもちょっとセリフが説明過多なところあったよなぁ……。

 まあ総監督が踊る大捜査線とかの人だし、客寄せにメチャクチャなストーリーや行間飛ばし気味のセリフ使いにくいんじゃない?(適当) たとえソレが売りだったとしても……

 商業の世界は複雑ですね。

 あともう一つオルタナを見る上で大事なのは、当たり前のことだけれど無印は小学生の話で、オルタナは高校生の話、ということ。

 ストーリーで提示される小学生のあるべき姿は背伸びせず子供として生きることで、大人になってもジュニア精神炸裂なハル子はその模範になるが、オルタナはあーぱーな子供がいつかは大人にならなければいけない話なので、ハル子がめちゃくちゃ暴れてたら扱いに困る

 そこの処理がうまく行かなかったのでオルタナでハル子が若干浮いてる、という話。

 いっそフリクリの名前使ってハル子じゃない奴出せばよかったかもしれない(トップ2方式?)けど、ビジュアルにハル子持ってこないと微塵も売れなさそうだからね……。多分出した結果も売れてないけど。

 そんな感じ。

 とりあえずオルタナの評価はボロクソに言ってる人もべた褒めしてる人も「フリクリじゃない」ところに主眼を置いているので、そういう評価の誘導が出来たところは褒めればいいんじゃないんですかね。おれはフリクリでオルタナやったことに凄くワクワクしたのでよかった。

 あとはプログレですね……。オルタナの締まりが思いの外良すぎたので正直プログレって何すんの? って感じなんですよね。

 森博嗣もS&Mシリーズみたいなの書いて下さいってファンに言われて「じゃあS&Mシリーズずっと読んでれば?」って返したらしいし、無印もう一回作られても困るんだよなぁ……。かといって真逆はオルタナでやっちゃったし。

 ということは、無印がテーゼでオルタナがアンチテーゼなのでプログレはprogressiveの通り先進しなければならず、両者を融合し昇華させたジンテーゼ的な作品になっていてほしいという期待が寄せられる。難しそう。

 ちなみに主人公は中学生らしい。

 なるほどなー……。

 一応ジンテーゼでいくという意志を感じますね……。

 どうなるんですかね。

 がんばって観に行こう……。

名塩ニュータウンのこと

20180918

絵の順番が前後してますね……

おととい、西宮名塩というところに行ってきました。西宮名塩とは西宮のくせに宝塚から行ったほうが近いというふざけた(ほんとうにふざけていると思う)街で、しかもすごい山の中にある。でも、そんなにアクセスが悪いというわけでもないし、なにせ電車も道路もちゃんとしているのでそこまでひどい街ではないと思う。あ、でも、国見台はスカスカですね…

遠藤剛生という建築家がいるらしい。安藤忠雄と同年代で、この人が1990年代後半に建てた集合住宅がとにかく僕の好みなのである。検索したらすぐに出てくるので写真は挙げないけれど、階段や渡り廊下をとにかく多用し、個々の棟も乱雑に配置する。これによって集合住宅という画一性のハンデを背負った建物であっても有機的な町並みが形成され、都市の路地のような光景を生み出している。すごい。

今は住宅事情も、ほぼ二極化といっていいと思う。思うに、とても大規模なマンションか、一戸建てか、という具合。その中間になるような集合住宅群の存在は(一戸ごとに対してのお金がかかるので?)すっかり無視されているような気がする。まあなので一種の郷愁かもしれないんですけど、なんとなくサイバーパンクなので一度見に行ってみるとぐっとくるかもしれません。

正しさについて

20190921

前いたところではいきなり他人の漫画に口出しをする厄介なひとがいて、僕は言われた人が筆を折ってしまうのではないかとずっとヒヤヒヤしていた。

批評というのは、相手がその批評に対して構えをとれる状態でないと成立しないものだと思う。相手が全く意識を向けていないときにそれを行うのは、通りがかったやいま面と向かって話してるひとをいきなり殴るようなものじゃないかなあ、とか考える。もちろん、いきなり殴ってその相手に「弱いなあ、もっと強くなれよ」なんて言うのはまったくよろしくないのだが、(まあ商業みたいな結構パブリックな場やもともと雰囲気としてスパルタ感溢れるとこならずっと身構えてりゃいいんですけど)内輪のゆるふわ空間でそれをされると歴史的に場が凍りつくし、言った側もまた俺なんかやっちまいましたか? みたいになって、最悪である。人のためと言っておきながら、通りざまにバカスカ殴っていては意味がない。もうずっと顔を出していないのでいまどうなってるか見当もつかないけれど、みんなやり過ごせているんですかね。

基町高層アパートのこと

20180915

また画像と関係のない話。

広島の繁華街、紙屋町から少し北のところには広島城を中心として県庁、中国放送、グリーンアリーナ、NTT、現代美術館といった公的施設が数多くあるのですが、その北西らへん、太田川(旧だっけ?)沿いにあるのが基町高層アパートという20階建てくらいのでっかい団地である。

もともとここは原爆スラムの街だった(夕凪の街 桜の国みたいな)。それを一掃し、そこにいた人を住まわせたのが基町団地である。実際行ってみると普通の団地の部分も結構あるのだが、19号棟~21号棟、それに長寿園の数棟はものすごい大きさで圧倒される。それだけ原爆スラムには人がいたわけですね。

とにかくここも戦後建築によくあるメタボリズム思想に基づいており、かなりゆとりのある有機的な設計になっている。ほとんどの部分において中廊下は2階に一つづつしかないため、一見メゾネットの住居なのか? と思わせるが、奇数階は偶数階から階段を使ってアクセスする構造であり、中廊下型と階段室型のハイブリッドである。ところで将来的にはメゾネットに改造できる造りだったというところも、有機的な感じである。区画に対して斜めに立っているので、一つの直方体「コア」(これがいかにもメタボリズムな用語だ)がいくつも連結し、屏風のようなギザギザの建物が完成する。高島平の壁のような建物も圧巻だが、普段の見栄え的にはアクセントの多いこっちのほうがきれいかな?

ここも例に漏れず過疎化、老朽化が進んでいるが、それでも全体的な空気は十分新鮮である。肝心のショッピングセンターと屋上庭園がボロボロなことだけは引っかかったが…(だって、お隣にマルナカあるしね)

ところでココらへん、すぐ南には広い公園が広がっており、すぐ近くの地下道はグリーンアリーナ、基町クレドを通って紙屋町や本通りまで抜けることができ非常にゆったりとした整備がなされている。もちろん、これも原爆スラムの整理事業でぽっかり出来た用地なわけで、理想的な空間ではあるが経緯を考えるとなんというか、手放しに持て囃すのも複雑ですね…

坂出人工土地のこと

20180913
画像はぜんぜん関係ないですね。

岡山は倉敷下津井と香川の坂出番の州を結ぶ瀬戸大橋の香川側、坂出市は高松以外の香川の自治体の例に漏れずありえないくらい空洞化が進み市街地は惨憺たる有様であるが、そんな坂出駅前にはこれまたすごい建築物がある。それが坂出人工土地である。

とはいえ建物自体はわりとありきたりである。想像してみてください、風呂なしオンボロ団地の直方体が何個か立ってる光景。道はガタガタで草は生い茂り、階段で鳥が死んでいる。意外とどこにでもありそうである。しかし、我々がこの場面を想像する時、正確に描き出すのなら2階にいなければならない。この団地は2階から始まっているのである。

1階レベルに商店が入っていて、2階から住居が始まる、という集合住宅の構造は別段不思議ではない。ところが、坂出人工土地においては1階と2階以上の建物の構造は根本的に異なる。すなわち、1階部分の商店+駐車場の上に敷地全体を覆うような天井を敷き、その上からいくつもの住居棟を建てていくわけである。こうすることで狭い敷地をまるっと住宅地として使うことができて、もともとあった街の様相を維持することができる、という理屈であった。ところが2階部分を新たな土地として登録することは不可能だったらしく、結局土地の利権の都合上こうした空中都市構想はここだけで終わってしまい今となっては昔の話である。

もうここができて60年近くなる。コンクリートの寿命が30年とか言われてるので、普通ならもう建て替えが視野に入っているだろう。ところがここは公営なのに(公営だから?)ほとんど手直しがされていないまま、あらゆるところが綻んでいっている。滅びゆく文明というか、一種のポストアポカリプスな雰囲気を味わえるというか、生きている軍艦島、とでも言っておこうかしら。