2021年おわり

 2021年も終わりかけです。少し早いですが一通り表立った活動はやり終わった感があるので、忘れないうちに書き上げていこうかと思います。

 今年もなんとか生き延びることができました。毎年年が明けるたびに「今年はちゃんと生きられるだろうか……」と思っていますが、比較的なんとかなったのかと思います。特に前半の5ヶ月に概ねあまり思い出したい出来事がなく、代わりに6月に入ってからすさまじい加速をしたような実感があります。トータルだと、まあまあはっきりとプラスのような感覚。

 私生活や交友関係の話をしてもしょうがないので、活動に絞って振り返ります。


 一昨年からコミティアに出始めて、2019年2冊、2020年3冊と出してきました。今年は前半何もできませんでしたが3回コミティアに出て3回とも本を作れたのでよかった。人がだんだん戻ってきてにぎやかになっていくのも安心感があって、11月の時は最初の人だかりに(ちょっと不安を覚えつつ)なんだかじんわりしてしまったのを思い出します。

 一個前の《晒す人》がちょうど2020年5月の本なので本当に1年ぶりの漫画の本 就職してから態勢がまったく立て直せず漫画は描けないわ引っ越して知り合いもいないわ久々コミティア出ようとしたら突然仕事が入るわでこの本が出せるまでの1年間は本当にろくでもない年だった この1年に関してはあまり冗談ではなくよく生き延びられたと思う

 人生も漫画もスランプの中で描きたいことも変わった 人が人に出会ってなんとかなる話を描いていたけどまだ人に出会う前の人にも生き続けてほしいので《くらし》も含めてそっちを描こうと思った1年間だった 驚くくらい描いていて自分自身が救われたような気がするしうれしい感想ももらった 漫画描くことと生きること諦めなくて本当によかった……

くらし

 もうすこし悲惨な人間の話 今年は楽しかったとはいえまだ不安も大きいし実際しくじったなあという事も多々ありとにかく色々考えるのでこの冬は自分が生まれたことを自分自身では祝えないなという気持ち あと1年頑張りたい

一壷天

 今年ずば抜けてうれしかった出来事

 一昨年から2年間まあまあみっともない時期も挟みながら6月にコミティアで変わらず出迎えてくださった漫画描きの皆さんと 本当に久々に別の趣味で新たに関わってくださった皆さんと とにかく色んな人の色んな力で生きてきたわけでその結晶みたいな本になった こんな嬉しいことはほとんどなかったので自分でも変かな? と思うくらい反芻してしまった…… こういうことを積み重ねて自分のことをしょうもないところ含めて(直したいところは直して)好きになって人と関わっていけたらいい


 というわけで改めてこの1年間、多くはない一人一人の時間を自分という人間に割いていただいたことに深い感謝を捧げたいと思います。本当は一人一人に挨拶をして回りたいくらい各氏に伝えたいことがありますが、まだまだだなと思うところも多いので、もう少しちゃんとできてから改めてお話できるとうれしい。来年はもう少し自分の内外の環境を、できる範囲でよくできるように動いて、その分だけ報われればそれ以上の幸せはないかと思います。

 来年も何卒よろしくお願いいたします。

タイムマシン角煮

 ティファールのちょっといいやつがセールでほぼ半額だったので電気圧力鍋を買いました。以前から料理の話をするたび、いろんな人から勧められていたのだが折角だし思い切れるときにそこそこのが欲しいな……と思い半年、ようやくの獲得。てなわけで、3ヶ月に1回位作っていた角煮を早速仕込んだ。

 で、蓋開けてびっくり。角煮って30分で完成するんだ……と。それまで前日に豚ブロックを下茹でして、大根も研ぎ汁で下茹で、最後にそれを合わせて半日……とやっており、丸一日家から出ない覚悟がないとなかなか作れない代物だった。まあそんだけ時間をかけたら大概のものは美味しくなる。煮込みって面倒だけ見てれば失敗しにくくて最高だなぁ、とかねて思っていたのだが、このタイムマシンの登場によりさらに最高だなぁ……という気持ちが強まった。

 翌日も鶏肉と野菜を蒸しました。これも各10分。なんだか、お金は払っているのだからある意味当然のことかもしれないが、自分がズルをしている気分になるくらい、清々しい時間短縮である。粉チーズとブラックペッパーで美味しくいただきました。次は牛スジカレーとか作りたいですね。


 自慢でもなんでもなく、まあまあな理屈屋で、しかも不器用な理屈屋なので人の3倍はものごとを理解したり噛み砕いたりするのに時間がかかる。そういうのもいろいろな動作がどんくさかったり、輪に入れなかったりする理由のひとつなんだろう。だからと言ってこの気性を今更変えることもできない。ずいぶん難儀な人間になってしまった。

 バウハウスという美術の学校が昔ドイツにあって、その垢抜けた引き算のデザインが人気になって今もその影響はいろんなところに色濃く残っている。でも味気ないなどと言われてあまりいい見方をされていなかった時期もあり、様々な問題があってたった十数年でとあるアメリカの大きな団地が爆破解体されたとき、モダニズムの終焉だなんて言われたこともあった。

 たしかに、ぱっと見では今はもうないこの団地とバウハウスの建物はよく似た豆腐のような建物だし、いわゆるモダニズムがバウハウスの校長で、後にアメリカに渡ったグロピウスという人間のフォロワーとして作り上げられたことはいまさら否定する理由がない。ではなぜ1919年創立のバウハウスが100年もの間忘れられず、この団地は跡形もなく消えてしまったんだろうか、となると、やっぱりそこに理屈があったかどうかだと思うのだ。ひとつの豆腐を建てる上で、何を考えて、何のために豆腐を建てようとしたのか・豆腐の形にしようとしたか……ということの深さの違いみたいなものが、この二つの運命を分けたように思えてならない。

 要領の悪い人間なのに、さっさと問題を片付けられない(ちなみに部屋も片付けられない)のはおよそ人として致命的な気がする。でも、要領が悪いからこそ、よくわからないままこなして次に向かってを繰り返すたびに、なにが問題だったのかがおぼろげになっていって、結局次に別の問題が出てきたときに苦しい思いをしたりして、自分にとってはそっちのほうが致命的だなと思う。本当は、そもそも矢継ぎ早にそんな問題をこなさなければいけない環境自体、どうかと思うのだけれど……ないものねだりをしてもしょうがなく、どんくさい人間にはこの2択しかなくて、自分はいつかどっしり構えた人になりたいと思ったからより不器用な方を選んだ。なんじゃそりゃと言われても仕方ないけれど、少なくとも自分はそういう選択に至るまでに考えて作っていった理屈のことを、できるかぎり好きでいたい。

 そういう感じで生きていけたらいいと思います。