甘いものが好きで毎晩コンビニに寄ってなにか買って帰る。今日もそのつもりで遠回りしてコンビニに行ったのだけど、入店直前にそういや日曜に2つ買ったケーキのうち残りの一つがまだ家にあることに気付いた。昨日食べようとしてすっかり忘れてたもの。家にケーキがある! という喜び半分、結構いいケーキなのに2日置いちゃった……というダメさ半分。
でっかい正三角形のショートケーキが残っていた。案の定、2つも乗ってるいちごがちょっとしんにゃりしていて、(自分が)なさけないから写真を撮るのはやめた。でもちゃんと美味しい。2日前に食べたほうがもっと美味しかっただろうけど……
所謂おたくの界隈で使われる「履修」という言葉がわりと苦手だ。最後まで読みましたか、続篇は、スピンオフは、映像は、元ネタは……というふうに、なんだか問い詰められているような気持ちになるし、自分で選んで楽しんでいたものが義務感めいてきてしんどくなってきたりする。自分の娯楽は自分で選びたい……
とはいえ、版権作品に対する態度みたいなものに関してはどちらかと言えば狭量な人間だ。公に出ているものについて考える時に、実験的に逸脱させたり、思考のくせとして方向づけられることこそあれ、その自覚が薄れていつの間にか当然のように受け入れてしまうようなこと、あるいはそもそも目の前のものを見ない態度は、せめて自分だけでも避けていきたいなと思う(自分が強制力を発揮して良いのは自分に対してだけ、という意味で、自分「ですら」徹底できていない、という意味合いではない)。一見すれば矛盾だし、程度の問題ということであっても、その線引が不明瞭で危なっかしい。ので、自分でよく理解するためにたとえ話でなんとかすることにしてみた。
誰でも通る道にりんごの木があって、とくに取って食べたりしても咎められない。そのうち切ったり熱を通したりしてお菓子を作ったりする。そのうちりんごのことについて詳しくなるだろうけど、りんごを食べているだけの人はもちろん、試行錯誤しながらお菓子を作っている人に対して、君たちはりんごが何たるかまるでわかっていない、というアプローチになると具合が悪い。その一方で、あまりちゃんと作られていないお菓子とか、良さの出ていないお菓子がえっさほいさと作られて、それがどんどんと広まっていくと、木になっていたりんごの多くがそういう使われ方をしていって、ちゃんと作られたお菓子はいつの間にか見なくなってて、木にもなにも残っていなかったりする。時々、木をちゃんと間引いたり、傷んだ所を取ってしまったり、倒れないように支えを足すひとがいて、残るところの木は残っていく。お菓子はおいしいし別にわざわざ材料のことをいちいち考えながら食べる必要もないが、それはそうとして誰かが木を見てやらなければいずれお菓子は作られなくなっていく。そういうイメージ。
この例えがどれくらいわかりやすいかというと、全然わかりやすくないし、著作権というかなり複雑なものを無理やり作物にたとえているので齟齬がものすごく多い。たとえば版権のつくり手を木に例えたけど、能動性で大きな違いがあるのでもうすこし込み入った話をすると通用しない。この話では基本的なことしかわからない。なんだけど、今でもどこかでなんだか議論めいたものが起こっていると、加わったりはせず、これはりんごだと……とか考えたりしている。
そういう感じで明日もなんとか生きていけたら良いと思います。