やっぱり人はそれを愛と呼んだりするんじゃないのか

 3月1日から大学新卒者向けの広報活動をしてよい、という経団連の決まりが一応、ある。ちなみに採用選考は6月からであるがそれは「採用!」と言ってよいのが6月以降というだけで普通にそれまでの3ヶ月の間も選考がじりじりと行われている。

 かくして大学三回碓氷さつし、愈山より高く海より深い両親の庇護を抜け一人のまっとうな社会人にならねばならぬ時がやってきた。といっても碓氷には社会がわからぬ。取り急ぎ周りと同じように十数社にエントリー・シートを出し、そして幾社よりの書類落ちの知らせを受け取るなど、その海路は順調に黒ずんでいる。

 というよりは、どうも既に出遅れていたようである。説明会に行くと妙に人事課の男と親しげに話している学生が幾人ほど、どうやら夏よりの就業体験で何度か顔をもう合わせていたのであろう。これには参った。しかも話している内容もやたらきな臭く、明らかに選考をショート・カットするような話を聞いてしまったときは流石に辟易してしまった。そういうの、隠れてやってほしいですわよ。

 いずれにせよ働かねばならぬが、働くまでがこんなにも長く、面倒で、面白くないものだとは知らなかった。就業してからも思いやられるものでありますね。というか、そもそも就業できるのかしらん。僕は家でご飯を食べて漫画を描いて時々本を出して帽子を買うくらいのお金と余裕があればそれでいいんですが、それも高望みなのかしらん。

 説明会にわざわざ来るような人々というのは実に労働意欲に溢れており、出てくる会話の端々に「我々は絶対に勝ち組になるぞ」、というオーラがみなぎっておる。いまいち理解していないが、おそらく勝ち組のパラメータは企業、収入、社会的地位みたいなものがファクターになっているんですわね。そりゃ金があれば自由だし、人に色々と褒めてもらえる地位ってバカに出来ない。ずっと思っているのですが、やっぱり基本的に人間は独りで生き抜くことが不可能な仕組みになっていて、最終的に自己を確立させるためには他者の愛が必要不可欠なんだと考えています。

 ところが漫画だったり物だったりを描いていると、そうして作り上げた作品から他者の愛を摂取することが出来たりするわけで、ここで社会的地位とか責任とかやりがいとかをアテにしなくても心理的には生きていく選択肢があるわけなんですよね。そういうふうに考えていくと、クソでかい仕事をクソでかい責任負いながらやってまでクソでかい金とクソでかい愛をゲットしなくても、そこそこの仕事をそこそこの責任でやってそこそこのお金得ながら漫画でも描いてそこでクソでかい愛をゲットすればいいんじゃないのみたいに思えてしまう。そうなんですけど、後者の思考はみるみる社会性を失っていって無事就職もへったくれもなくなっていっているわけですが……

 いずれにせよ漫画を描きはじめて、大学のサークルやお絵かき、同人の知り合いさんと関わってきた中でまだまだ社会に出ていない大学生ながら一番心地よかったのは、誰一人として自分の職業だとか収入、社会的地位みたいな話を必要最低限以上していないことなのでした。これは偏見なんですが、多分同窓会って大して卒業後付き合いもなかった人にひたすら自分のやっていってる境遇でマウント取り続ける会だとずっと思ってるんですけど、作品で自分をぶつけることの出来る人ってきっと人に直接マウント取らなくても自分を規定することが出来るのだと思います。クソでかい会社の役員でも僕のような半分ニートの人間でもある種創作という平面ではフラットに接することができるのは、もう「愛」だと思います。

 基本的に創作は大衆消費としての需要はだいぶ飽和気味な趣があって、しかしどんな領域においてもなにかを創作する人というのは、多かれ少なかれ消費されることとは別の場所に己の内に渦巻くよくわからないものを出力したい、という動機でコンパイルに励んでいるんじゃないんでしょうか。だからこそ絵やストーリーテリングみたいな技術だけでは断定できないようなものが滲み出て、それが人にちゃんと掬われたりするんでしょうね。いつまた漫画描けるようになるかまったくわかりませんが、そういう物を描いていけると幸せだなあといつも考えています。就職は……疲れたし暫く休みたいですネ〜〜〜〜。

京都精華大学の卒展に行った話など

 昨日土曜日、相変わらずやるべきことをやらずに、しかもここ最近はろくに漫画も描かずに(『魔の周り』の一番新しい話が12月なので実に2ヶ月以上!)だらだらと無為に時間を過ごしていたら漫研の偉大なる先輩であるサム先生に精華大来ない? と言われたので行く〜〜〜ってなって行ってまいりました。

 京都精華大学というのは僕が住んでいるところよりも少し北のところ、岩倉からもう少しだけ先に進んだところにある木野という素朴でかわいい名前の土地にそびえる、漫画家を養成する学部のハシリとして有名な大学なのです。つまり、美大。これまで大変適当に漫画を描いてきた自分にとって、4年間、というか普通にそれ以前から真剣に絵や漫画と向き合ってきた同年代の人の作品と向き合うというのは、もっぱら自らのあらゆる至らなさ故のものではあるとはいえ大変気の進まない話であります。物理的には作品と向き合っているはずなのに、実質的には自分のこれまでやってきてこなかったことに対する後悔とか、今後もだらだらと絵を描いたり描かなかったりするんかなあという不安とか、そういう大学生らしいといえばらしい自意識と対峙するはめになってしまいます。(あ、そうそう、勿論漫画だけじゃなくて西洋画や日本画、造形、映像、グラフィックなどを幅広く取り揃えた総合的な美大で、しかも人文系の学術研究も行われているのですよ。すごいです)

 もともと今の大学に入ってから絵や漫画をまじめにやりはじめて、もう少し真剣になるにはさらに1年必要だった僕が少なくとも今の大学ではなく精華大のような美大を何らかの視野に入れることなどま〜〜〜〜さらっさらなかったわけで、別に今でも絵は趣味でやるのが一番よいと思っているのですが、趣味だから真剣にぶつからなくて良いというわけにもいかぬ。とりわけ最近の自分にはつねに「なにかをやり切る」という感触が信じられないほど薄く、全身全霊をぶつけた人々の作品なんか観てしまったら自分のあまりの不甲斐なさにぺしゃんこになってしまうんでないの? という気持ちさえありまして、そういうわけで若干の敬遠があったわけなのです。自分で打ってて逆恨みみたいな理由だなという趣が大変強くてなんというかアレですね……なんだか滅入るような話になってまいりましたが、ともかく今後が全部未定な僕はまあぺしゃんこになってもいいじゃないか、一度死んで生まれ変わってこい、ということできこきこと自転車を漕いて木野のキャンパスへと赴きました。

 ただ僕は決定的なことを忘れていたのでありまして、この大学にいる人々って単にこうストイックにモノへぶつかっていったんじゃなくて、多分楽しみながらやっていってたんですよね。だからなんというか、それぞれの卒業制作に、こう、強張りがないというか、非常にのびのびとした雰囲気が湛えられていたのでした。とりわけ今日も一人で再度訪れたのですが、今日はより一層制作者の方々の伸びやかな印象というものを感じ取ることが出来たような気がします。ここ、いわゆる普通の学術大学ではなかなか味わえないところではないでしょうか。まあ論文だしな。

 そういう視点で見てみると、確かに作品を作るときに、無理に身構えてしまうとなんだか妙に角ばったものが出来てしまった経験があり、逆に好きなものをゆっくりじっくりのんびり描いてきた漫画は今でも鑑賞に値するようなモノになったこともあるわけですね。そんでそうした作品の伸びやかさというのは、たぶんそれなりに客観的な印象にも影響を与えているのでしょうね。要するに僕の場合、前者の漫画はありえないほど売れなかったのですが、後者の作品はけっこうなブランクを挟んでの参加だったのですがわりかしよく売れた感触がありました。不思議なもので、楽しんで作られてないものってなぜかなんとなくそういう印象があったりします。

 なんかとりとめのない感じになってしまいましたがまあなにが言いたいかというと、もう大学生活もいよいよ佳境という趣がありますが(延びるかもね)ラストスパートとして自分のやりたいことには全力で楽しんでやりたいよね、みたいなな〜〜んかよくあるありきたりな教訓をゲットしたということですね。ありきたりなんだけど見失っていたわけで、頭でっかちになってしまうのも考えものであります。ただまあ美大に入り直すとかはまあないにせよいい加減独学で回り道するよりはある程度体系的な方向付けがあるとよいなという気持ちがつねにあるので、そこらへんを色々と考えていけばいいかなというふうに思っております。大学や専門だけが全てではないからね!

 そんな感じです。だいぶ得体の知れない恐怖が消えてきて戦える準備が整ってきた感じだ! やるわよ〜〜〜〜

実は一周年だった

ほんとです。

自分でも漠然と今頃だなあという感じで具体的な日付なんて一年経てば忘れちゃってたんですが、最初が几帳面な自分のことなので更新履歴にちゃんと記してありました。2月1日のことだったんすね〜。

どんくらいで飽きるかなと思って始めたんですが、ちょくちょくイベント出ていたので一応最低限月イチでの更新は出来ていたみたいですね。今年はイベント出れないのでどうなるのでしょうかしら。このブログも半放置状態ですわね〜〜。

まあリアルタイムの生存情報はTwitterに任せるとして、このサイトはツイッターで微妙に漁りにくい情報などを探すのにご利用下さい。そういうサイトなので。

ではまた。

最近週はじめの2日にほとんど用事がないこともあって、土日合わせて週のうち4日がフリーに動けるニート状態です。最悪の意識。当然そこでやらなければいけないこともそこそこあるし、強制の用事がないと何も出来ないタイプの人間なので本当に無為に過ごしているわけなのですが、今日は珍しく永観堂に紅葉を見に行ってきました。だいぶ遅かったと思っていたのですが結構残っていて、真っ赤な地面に真っ赤な木々で大変美しかったです。地味に行くの初めてでしたね。

そんな感じで冷え込み激しいこの時期ですが、一人暮らしになると(またこの書き出しだ)なんてすっかり食べなくなってしまいました。あ、でも定食屋とかで鍋定食を頼めば食べれるかな? でもたまに実家に戻って食べる鍋は冬に限らず美味しいものですね。我が家は全員食い意地が張ってるので3、4人で食べるときも倍くらい用意され、お米も大量に投げ込まれて翌日のおじやとなるわけです。定食屋ではまあおじやとして食べることはほとんどないわけなので、こうした〆も家庭の味と呼べるんでしょう。

そんな感じです。

学祭

今年で自分は大学に入って3年目になるのですが、学祭も3回目ともなるとなんというかこう、自分の歳時記に文字が馴染んだような感覚があってだいぶ落ち着いて過ごすことができました。きっと、2回目は再び訪れるかどうかを恐れてしまうのだと思います。そして2回目を経験して、なんとか自分の人生における出来事の次の位置を予測することができるようになるという感じでしょうか。

自分が入っている漫研は講義室を真ん中で仕切って、前半分で部誌やカレンダーを売りつつ机に模造紙を貼り付けて落書きコーナーを展開したりする一方で、後ろ半分は完全なバックヤードであり部員が常にだらだらしています。自分はというとまあ典型的な根暗な大学生なので、特にすることもないということでずっとこのバックヤードでのんびりみんなで持ち寄ったお菓子を(半ば一方的に)貪り続けたり、パソコンを持ち込んでぼちぼちと漫画を描いてみたり、学祭にやってきたOBの人と喋ったり、たまに前に出て落書きのサクラをやったり、音楽をかけてみたり、いろいろやっていました。この教室こそが自分の学祭のすべてなわけですが、そんな小さな世界でもやることは尽きません。

自分が大学に入ってからこのスタイルはほとんど変わっていませんが、当然人の出入りが続く大学という空間にいる以上、自分の周りはどんどん変化していきます。就職活動をまじめにやっている同期の人はそれが理由なのかほとんど教室に姿を見せませんでした。新しく入った後輩の人たちも、模擬店やらバイトやらでちょくちょく教室を抜け出していきます。早い段階でクラスから脱落して就労経験もない自分にはおよそ想像もつかないことでした。それに去年までいた人達がOBになったり、OBの人たちも環境が変わったりして、教室に見慣れた顔を認めることができないことも多くなりました。大学はモラトリアムなんて言われますが、そこはサザエさんのような世界ではなくてやっぱり世の中と地続きな一つの領域でしかないのでしょう。最終日は日曜日でどこも大盛況そのものだったようですが、その一方で明日から仕事だったり、同日に東京でコミティアがあったりで次々に人が帰っていって、最後に自分が一人残されたバックヤードはまさにそうした一抹の切なさそのものだったように思えます。

自分だけが変わらないようにする、と思うのは簡単ですが、実際のところは周りの変化に合わせて自分も適合していかないとすっかり立ち行かなくなってしまいます。それにおそらくは来年で自分の大学生活も終わりを迎えてしまうのですから、少しずついろいろと変えていかなければならないでしょう。