自炊おやすみ

 ちょっと気持ちが沈んでいたので自炊含めて掃除洗濯もお休みして明日に回した。今日は詩集を買ったり(わざわざ言っちゃうくらいには普段買わないもの)、久々に高いラーメンを食べたり、映画を見たりした。

 気が沈んだ時に慌てて色々やろうとするとどんどんとドツボにはまっていく。大抵それでどうしようもなくなった時にふと読んだものに助けられて立ち直ったりする。ということは、これはまずい、となればすぐに絵も家事もやめて一旦寝て読みたかった漫画を買うなり見たかった映画を見るなりすれば(比較的)よいということ。ちょっと昨日からしんどく、明確な原因があるわけでもなかったけれど昔よりはリカバーがうまくなった気はする……ただ、休みがあってお金があってできることだから、もう少しみんなに休むことがやりやすい世の中であってほしいとは思う。


 今日行った映画館の、チケット発券機のすぐそばで子供が佇んでいた。特に遊んでいるわけではなく、しっかりと立って親がいるのだろうか一方向を見ている。スペースを塞いでいるわけではないから隣に立つこともできたけれど、いきなり知らない大人が前にたちはだかるのも申し訳なく、すいません、と手刀を作りながら立ち入った。子供も、すみません、と言って後退りした。ごめんなさいね、と子供に重ねて言った。

 一時期だけ店頭での販売の仕事をやっていたことがある。比較的家族連れが多く、小さい子供を連れてくる親御さんも多かった。そういう時、キッズスペースに子供を連れて行ったり、ジュースをあげたりするのだけれど、どうしても丁寧語になってしまう。こちらです、ジュースになります、ここに置いておきます。子供もかしこまるから……と上席にたしなめられた。あるいは、一年下の新入社員にも丁寧語で話すし、君付けもなんだかむず痒い。帰省した時に祖父母に会う時、敬語で話してしまって、なんでそんなに他人行儀なんだと親に怒られないにせよ指摘される。「敬語グセ」である。

 立場について考えることが多い。自分の考えるところとは全然関係ないところで、いつの間にか立場の違いが生まれて、接し方を変えてその関係を理解する・維持することがどうやら大切なことのようだ。でも、自分にとっては後輩も子供も祖父母も、ほかのすべての人と同じように丁寧に接したいし、自分はこういう人間であるということを伝えたい。相変わらずいろんなことが自分にはこなすのが難しいから、せめてまじめに何かを考えている、ということだけでも(余計な押し付けかもしれないけれど)伝わればいいなと思う。

 せっかく詩集を買ったので、ひとつ。

子供 石垣りん


子供。
お前はいまちいさいのではない、
私から遠い距離にある
ということなのだ。


目に近いお前の存在、
けれど何というはるかな姿だろう。


視野というものを
もつと違つた形で信じることが出来たならば
ちいさくうつるお前の姿から
私たちはもつとたくさんなことを
読みとるに違いない。


頭は骨のために堅いのではなく
何か別のことでカチカチになつてしまつた。


子供。
お前と私の間に
どんな淵があるか、
どんな火が燃え上がろうとしているか、
もし目に見ることができたら。


私たちは今
あまい顔をして
オイデオイデなどするひまに
も少しましなことを
お前たちのためにしているに違いない。


差しのべた私の手が
長く長くどこまでも延びて
抱きかかえるこのかなしみの重たさ。

『表札など』、1968

 明日もなんとか生きていきたいです。

ケーキ2日経過

 甘いものが好きで毎晩コンビニに寄ってなにか買って帰る。今日もそのつもりで遠回りしてコンビニに行ったのだけど、入店直前にそういや日曜に2つ買ったケーキのうち残りの一つがまだ家にあることに気付いた。昨日食べようとしてすっかり忘れてたもの。家にケーキがある! という喜び半分、結構いいケーキなのに2日置いちゃった……というダメさ半分。

 でっかい正三角形のショートケーキが残っていた。案の定、2つも乗ってるいちごがちょっとしんにゃりしていて、(自分が)なさけないから写真を撮るのはやめた。でもちゃんと美味しい。2日前に食べたほうがもっと美味しかっただろうけど……


 所謂おたくの界隈で使われる「履修」という言葉がわりと苦手だ。最後まで読みましたか、続篇は、スピンオフは、映像は、元ネタは……というふうに、なんだか問い詰められているような気持ちになるし、自分で選んで楽しんでいたものが義務感めいてきてしんどくなってきたりする。自分の娯楽は自分で選びたい……

 とはいえ、版権作品に対する態度みたいなものに関してはどちらかと言えば狭量な人間だ。公に出ているものについて考える時に、実験的に逸脱させたり、思考のくせとして方向づけられることこそあれ、その自覚が薄れていつの間にか当然のように受け入れてしまうようなこと、あるいはそもそも目の前のものを見ない態度は、せめて自分だけでも避けていきたいなと思う(自分が強制力を発揮して良いのは自分に対してだけ、という意味で、自分「ですら」徹底できていない、という意味合いではない)。一見すれば矛盾だし、程度の問題ということであっても、その線引が不明瞭で危なっかしい。ので、自分でよく理解するためにたとえ話でなんとかすることにしてみた。

 誰でも通る道にりんごの木があって、とくに取って食べたりしても咎められない。そのうち切ったり熱を通したりしてお菓子を作ったりする。そのうちりんごのことについて詳しくなるだろうけど、りんごを食べているだけの人はもちろん、試行錯誤しながらお菓子を作っている人に対して、君たちはりんごが何たるかまるでわかっていない、というアプローチになると具合が悪い。その一方で、あまりちゃんと作られていないお菓子とか、良さの出ていないお菓子がえっさほいさと作られて、それがどんどんと広まっていくと、木になっていたりんごの多くがそういう使われ方をしていって、ちゃんと作られたお菓子はいつの間にか見なくなってて、木にもなにも残っていなかったりする。時々、木をちゃんと間引いたり、傷んだ所を取ってしまったり、倒れないように支えを足すひとがいて、残るところの木は残っていく。お菓子はおいしいし別にわざわざ材料のことをいちいち考えながら食べる必要もないが、それはそうとして誰かが木を見てやらなければいずれお菓子は作られなくなっていく。そういうイメージ。

 この例えがどれくらいわかりやすいかというと、全然わかりやすくないし、著作権というかなり複雑なものを無理やり作物にたとえているので齟齬がものすごく多い。たとえば版権のつくり手を木に例えたけど、能動性で大きな違いがあるのでもうすこし込み入った話をすると通用しない。この話では基本的なことしかわからない。なんだけど、今でもどこかでなんだか議論めいたものが起こっていると、加わったりはせず、これはりんごだと……とか考えたりしている。

 そういう感じで明日もなんとか生きていけたら良いと思います。

ご飯以外

 今日は特になにも作っていないのでご飯以外の話をします。


 昔からぼんやりと浮かんでくる景色がある。よくある表現で思い出の中のイメージって淡くパステルな感じで色づけられがちだけれど、まさしくそのくらいの淡さで、ススキだか背高泡立草だかみたいなものがゆらゆら揺れている。単線をゆっくり気動車が走っていき、自分はその隣のひび割れたアスファルトの狭い歩道を自転車に乗って眺めている。そういうイメージ。

 ふとそれに気付いたのが小学生くらいの時。以来、夢の中だったり、退屈なときにはっと白昼夢のように思い出したりと、とにかく頭の中で見つかったり隠れたり、というのを繰り返して、そのたびに一体あれはなんだったんだろうなあ、とか考えていた。学区内にはなかったし、親に聞いてもそんなところに出かけたことはない、と言うのだ。でも、果たして小学生の想像力でこんなことが描けるかというと、いくら無限のインスピレーションがあったって難しいんじゃないかとも思う。じゃあこの光景はどこから来たのか。なんなら、本当に前世みたいなものがあって、その時見ていた景色を無意識で反芻しているのかも、とか妙にロマンチスト気取りになったこともあった。

 中学生になって、堂々と学区の外に自転車で出られるようになった。少し漕いでいると、あんまり馴染みのない踏切に差し掛かって、ふと横を見たら、なんとそこに今まで見ていたものがそっくりそのままあった。電柱の位置も、花や草の高さも、走ってくる気動車の「のろさ」も。──要するに、母親の漕ぐ自転車のかごに座りながら、何かの行きがけか帰り道かに、なにげなくこの道を通ったことがあったのだ。それであまり馴染みのない道だし、小学校に上がって、誰かの自転車かごに座ることはなくなり、一人では学区内しか動けなかったからそれに気づかずに数年間過ごしていただけだったのだ。正体見たり枯尾花。

 それから時々自転車で街に向かう時、わざと遠回りしてその道を通っていた。今も、帰省して一人でふらふらする時に、必ず通る。田舎町でも帰るたびにどんどん店が変わっていくし、思いがけないところが空き地になって、そこにまた建物が立ったりする。幸いこの道はそういう目まぐるしさとは程遠くて、道沿いの建物も同じままで、廃線をまぬがれた気動車が今ものそのそ動いている。でも、あの頃見えていたものと全く同じものしかないのに、なんとなく他人行儀で通り抜けてしまうのだ。

長芋・アボカド・刺身こんにゃく

 今日は作っていないものの話をしようと思います。

 切ってそのまま醤油と卵黄で食べようと思って昨日アボカドを買ったものの、先になめろうを作ってしまってそっちを今日明日くらいで食べきらないといけないのでアボカドを切るのをもうすこし後ろにした。熟成だと思って昨日から定期的に触っている。待ち遠しい。

 生のまま醤油で食べるのが美味しいもの、野菜とかにもたくさんあることに子供の頃は気づかなかった。よく長芋を短冊切りにして海苔と卵黄をのせて食べたりする。刺し身というよりユッケな趣だが、長芋には醤油そのままより卵で若干クッションがあるほうが馴染んだ味になるような気がする。あと、毎回食べよう、食べようと思っているけどいつまでも買えていないのが刺身こんにゃく。昔修学旅行のお昼に出てきて、こんな美味しいこんにゃくの食べ方があるのかとびっくりした記憶がある(中学生に刺身こんにゃく出してるのはどうかと思うけど……)。次こそ買いに行きたい。

 明日も美味しいもの食べて生きていきたいです。

なめろう・南蛮漬け

 サーモンでなめろうを作った。去年電動チョッパー(ミキサーをひっくり返した感じのやつ)を買って、ミンチ肉とかよく作っていたのでその要領でざっくり魚と薬味を混ぜておいたものをガーッとすると、すぐできる。魚は高いし足が早いので作るのにまあまあ決断が要るけれど、手早いし美味しいし、まな板以外洗わなくていい(トレーで刻んだらまな板もいらないね)しいい料理だ。

 あと、買っといてそのまま帰省してしまった茄子も火を通して南蛮漬けにした。揚げ浸しよりも甘くて美味しい(作り方によります)。最近疲れていたのであまり自炊をしていなかったが、シンクも部屋も少し綺麗にしたのでちょっと気合が入った。こういう感じで、あんまりダレているときの自分を責めたりせず、よし、やるぞ、という時に全力で色々できるようにしたい。ただでさえ人よりも行動できる時間や力がないから……


 元々コミティアで知り合った人たちと作業中に通話をすることがあって、夜を一人で過ごすのがなかなかしんどい自分にとってはかなりありがたかったし、原因なくしんどいときに全然まとまっていない不安なことをつらつら聴いてもらったりとか、しょうもないことで笑ってくれたりしたことが嬉しかった。最近はもう少し色んな人と話している。ただ、自分はなかなかに口下手だし、かと言って人から話を引き出せるような聞き上手でもない。話せそうなときだけ、あるものを全部話してしまうだけになってしまう。ナチュラルに流してくれる相手が多くてありがたいのだけれど、顰蹙を買ってしまったことも多分ある(よくない所をちゃんと教えてくれる人というのはなかなか少ないので、実際の有無はわからない……)。つくづく甘えた人間だということを自覚したうえで、なんとか頑張っていきたいけれど……

 そういうこともあって、今も文章にしたり、漫画にしたりして生きているのだと思う。文や漫画は読み手のテンポで読めるし、興味が遠のけばすぐ距離を置いても話し手が嫌な思いをしなくて済むし、また時間を置いてまた読み出したり、すごく後でまた最初から読んだりできる。いったい何人に届いているのか、ともすれば誰にも届いていないのかもしれないけれど、それでも誰かがそうやって、自分がなんとか形にした考えとかものの見方のことをわかってくれるかもしれないというところにだいぶ救われている。それに、自分の話し下手・聞き下手は多分時間の流れが人より遅いということに尽きると思っているので、人の言葉も文や絵で眺めることが好きだったりする。なんだか文通みたいだ……そうやって、ゆっくりでもいいから何かをお互いに話し合っていけたらいいし、そういうことがやりやすいように自分の内側の何かをもっと相手に届く形にしていけるようになりたい。

 明日もなんとか生きていきたいです。