学祭

今年で自分は大学に入って3年目になるのですが、学祭も3回目ともなるとなんというかこう、自分の歳時記に文字が馴染んだような感覚があってだいぶ落ち着いて過ごすことができました。きっと、2回目は再び訪れるかどうかを恐れてしまうのだと思います。そして2回目を経験して、なんとか自分の人生における出来事の次の位置を予測することができるようになるという感じでしょうか。

自分が入っている漫研は講義室を真ん中で仕切って、前半分で部誌やカレンダーを売りつつ机に模造紙を貼り付けて落書きコーナーを展開したりする一方で、後ろ半分は完全なバックヤードであり部員が常にだらだらしています。自分はというとまあ典型的な根暗な大学生なので、特にすることもないということでずっとこのバックヤードでのんびりみんなで持ち寄ったお菓子を(半ば一方的に)貪り続けたり、パソコンを持ち込んでぼちぼちと漫画を描いてみたり、学祭にやってきたOBの人と喋ったり、たまに前に出て落書きのサクラをやったり、音楽をかけてみたり、いろいろやっていました。この教室こそが自分の学祭のすべてなわけですが、そんな小さな世界でもやることは尽きません。

自分が大学に入ってからこのスタイルはほとんど変わっていませんが、当然人の出入りが続く大学という空間にいる以上、自分の周りはどんどん変化していきます。就職活動をまじめにやっている同期の人はそれが理由なのかほとんど教室に姿を見せませんでした。新しく入った後輩の人たちも、模擬店やらバイトやらでちょくちょく教室を抜け出していきます。早い段階でクラスから脱落して就労経験もない自分にはおよそ想像もつかないことでした。それに去年までいた人達がOBになったり、OBの人たちも環境が変わったりして、教室に見慣れた顔を認めることができないことも多くなりました。大学はモラトリアムなんて言われますが、そこはサザエさんのような世界ではなくてやっぱり世の中と地続きな一つの領域でしかないのでしょう。最終日は日曜日でどこも大盛況そのものだったようですが、その一方で明日から仕事だったり、同日に東京でコミティアがあったりで次々に人が帰っていって、最後に自分が一人残されたバックヤードはまさにそうした一抹の切なさそのものだったように思えます。

自分だけが変わらないようにする、と思うのは簡単ですが、実際のところは周りの変化に合わせて自分も適合していかないとすっかり立ち行かなくなってしまいます。それにおそらくは来年で自分の大学生活も終わりを迎えてしまうのですから、少しずついろいろと変えていかなければならないでしょう。

ぶどう

僕は岡山という気候が穏やかでそこそこ賑やかで色んな所に子供が遊べる水路があって新幹線が全部止まる素敵な街に住んでいたのですが、そういうところに住んでいると土地柄お中元やお歳暮で果物をもらう機会が結構ありました。岡山って果物美味しいんですよね。これは有名な話なんですが岡山の子供は桃は白桃しかないものだと思ってたりするんですよ。黄色い桃と出会うのは小学校の給食で冷凍ピーチが出たりするタイミングとかだし、地理の授業で岡山が桃の生産量でトップじゃないどころかトップ5ですらないということにめちゃくちゃ驚いたりするんですよね。そういう意味で果物ガラパゴスな街だったりします。

さて岡山でぶどうといえば黄緑色のマスカット・オブ・アレキサンドリアや種無しで食べやすいピオーネだったりします。岡山大学の大学生協ビルにもマスカットユニオンとピオーネユニオンがあって、お前らどんだけぶどう好きやねんという感じ。一人暮らしになるとすっかり果物なんて買わなくなるわけですが、岡山の頃はよく食べていました。でも僕が一番好きなぶどうはデラウェアだったりします。あのレーズンの素みたいに小さなぶどうがわしわしついてる奴ですね。甘いんですよ、アレ。果物はかつて水菓子と呼ばれていましたが、デラウェアの甘さを舌に広げればその呼び方もむべなるかなという具合。ピオーネは品種上種が最初からありませんが、デラウェアも薬品処理によって(小さいぶどうに種があると食べにくいからね)種がなくなっていて非常に食べやすいのですヨ。まぁ最近はめっきり果物食べなくなってしまったので食べられるならなんでも食べたいですね。

今日はそんな感じです。

交通事故

せっかく日記ページが有るのにちっとも喋っていないというのは、なんとももったいない。けど、なんでも書いていいとなると何も思いつかないのもモノグサな性分としてはまったく否めない。

というわけで、自動で単語を選択してくれるツールを使ってお題を引っ張り出すことにしました。どこまで続くかわかりませんが。


で、『交通事故』。

左卜全とひまわりキティーズの楽曲「老人と子供のポルカ」の第2番にはこんな歌詞があります。

やめてケレ やめてケレ やめてケレ ジコジコ

やめてケレ やめてケレ ジコジコ パパヤー

ラララ ランラン ララララ ジコジコ

ランランラン ラララ ジコジコ

どうして どうして ジコジコ パパヤー

おお神様 神様 助けて パパヤー

で、この曲が出た当時、1970年の交通事故死者数というのが、16765人。交通戦争という言葉が誕生するのも無理からぬ死にっぷりですね。

結局死傷者、大気汚染といった問題に並んで渋滞という問題もモータリゼーションの最大の懸念事案として第一線を長らく張っており、そのアオリを受けて見事都市から路面電車やトロリーバスが消滅しました。専用軌道を車道に変えたら自由度が上がるので渋滞も減るだろう、という、なんとも甘い考え方です。

自分が今住んでいる京都でもこういう経緯で1978年に市電は全廃されてしまいました。もちろん、一概に路面電車を残すべきだったというのは、レトロスペクティヴが過ぎているか、あるいは復権という、ある意味で極端に革新主義的な発想であるということは考えなければならないでしょう。ただ、京都の交通事情は本当にひどくて(本当にひどい)、交通施策が大してなされないまま中途半端に地下鉄が出来、残りの路面電車は全部バスになってしまいました。路面電車を地下鉄で代替する発想というのは大阪や東京のような大きな都市では可能でしょうが、何本も路線を作れない京都くらいの街では地下鉄なんてものは、やはり大して意味を持つものではなく、長らく大都会であることのアピールに過ぎない存在として凄まじい赤字とトップクラスの運賃(の高さ)に現れてしまっています。京都という街を掘るにあたってかつての平安京やらの遺構のせいでどんどんと掘削費がかかってしまったという話がよく言われますが、沿線の観光地の少なさ、阪急・京阪との妙な融通のきかなさ、京津線を部分廃止させて高額な二重運賃と本数削減で窮地に追い込むという具合に今でもぎくしゃくしています。その上一番観光客が押し寄せる東山通も連日バスが団子状態にひしめきあい、渋滞解消のための路面電車撤廃とはなんとやら、東山三条から京都駅まで酷いときは1時間かかる。ひでえ。

実際のところ、京都の道を歩くと、うわ、よくこんなところ軌道で占拠してたな、というくらいどこもかしこも道が狭いわけで、正直なところ今さら路面電車を復活させたところでかえって混乱を招くことにしかならないのですが、かといってこのまま京都の道路事情をカオスのまま放置するのも、まあ、よくない。交通戦争というか、応仁の乱みたいになってしまいますね。市バスも均一区間での前払いを導入しようとしてたり、ぎりぎり頑張っている風には見えるわけなのですが、微妙な路線は逐次民営にぶん投げたりもしているわけで、自分が京都を出るころには多分解決に一歩も進んでいないでしょう……


全然交通事故関係なくなっちゃった。こんな感じで方向だけ決めて適当に突っ走る感じでやっていきます。そのうち読みやすくなっていくかな?

関西コミティア54

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おひさしぶりです。ブログの更新も出来てないの駄目すぎませんかね……

そんなわけで申し込んでます。

頑張りたいです。何卒宜しくお願いします。