グラタン

 バジルソースを買ったので、トマトソースも使ってグラタンを作った。イタリアンカラー。ほぼ炭水化物とチーズなのに、すごく健康的に見える。あと、毎回すごく作りすぎてしまう……


 昔「イデオン」のあらすじを読んでた時、「地球にとっては降参の白旗が相手にとっては宣戦布告の印だった」というくだりで、そんなことあるかい、と思わず笑ってしまったことがあった。今から思うとそんなことはある。だいたい白旗が降参というのも、後天的にそう認識しているだけだし……


 例えば人が100人いたとして、99人が笑っているのに残り一人がそっぽを向いてしまって場が白けた時、果たしてその一人の空気の読めなさ、あるいは卑屈さ、感性のずれ方のせいにしていいとあまり思わない。少なくとも、その人の面白さの感性に訴求しなかったということだけが残っている……音楽やらなんやら、国境はたしかにときに超えうることもあるだろうし、それを無理、無理と嘲笑う気はさらさらないけれど、多分性別であったり、社会的なロールであったり、置かれている心理的な境遇であったりという部分で何かしらの壁には阻まれてしまうと思うし、阻まれているということを見つめていく方ができるだけしんどい人を減らすためには有効なのではないかと思う。

 自分はわりと人と違うものが好きだったし、時には他の大勢の人が好きだったものもあまり好きではなかった、というかちゃんと言えば嫌いだったこともそれなりにあった。良かったよね、と言われた時、幼くて場を取り繕うのが凄く下手だった頃は、いや、嫌いだけど……と言ってしまって、それをきっかけにいじめられたりした(今も治ってはいないが……)。今から思っても、好きな物を嫌いだったと言ってくる人とは別に仲良くはしなくてもいいんじゃないかとは思う(そこを補ってあまりある位他の部分でわかり合えるというのは凄く素敵なことだとも思う)が、離れていくときに何かをぶつける必要もないし、ぶつけ続ける必要はなおのことない。自分の好きな物だって、(当然他の人が好きな物以上に)嫌う人がいるし、自分の描く漫画だって誰かにとってはけしからぬ、まったく社会のためにならない人間にしか映らない。

 それでも自分は特に方向転換もせずにずっと嫌いな人が嫌い続けるだろう漫画を描いてきたしこれからも描いていくだろうが、少なくとも自分の漫画は誰かにとっては快いものになるし、別の誰かにとっては嫌なものになってしまうという自覚の下で行っていきたい。たんに嫌いな人の意見なんか無視しちゃえ、という気持ちだけでは描きたくない。自分は誰かに対して嫌な思いを持つし、嫌なことをされたことも沢山あるが、多かれ少なかれ自分は誰かに嫌に思われるし、嫌なこともし続けてしまう。それでも自分はできるだけ快く生きていたいから、他の人の快さのことも考える必要がある。

 あらゆる行為を行うにあたって、自分が何をやっているのか、誰にどのような影響を与えるか、悪い影響をできるだけ減らし、かつ自分の気持ちとも折り合いをつけるには、場所、時間、やり方、説明をどのようにすればよいか、ということは余裕がある限り考え続けたい。逆に言えば、いかなる理念の下でいかなる考慮がなされたとしても、多かれ少なかれ誰かを嫌がらせることにはなってしまうのではないか。お互いが何を快いと感じるか、何は譲れないのかというところで歩み寄りが生まれるというのが人と人との関係なんじゃないかと思う。もし国境もジェンダーも階級もその他の何もかもを飛び越えてしまう表現が出てきて、それでもただ一人自分だけが、もうお世辞でもその場を切り抜ける選択肢が出てこないくらい不快に思ってしまった時、どうすればいいんだろうかと思う。ちゃんと自分は不快だったと表明できるだろうか……

 すごく気の遠いことだけど、なんとなく気が気でない。