ぶどう

僕は岡山という気候が穏やかでそこそこ賑やかで色んな所に子供が遊べる水路があって新幹線が全部止まる素敵な街に住んでいたのですが、そういうところに住んでいると土地柄お中元やお歳暮で果物をもらう機会が結構ありました。岡山って果物美味しいんですよね。これは有名な話なんですが岡山の子供は桃は白桃しかないものだと思ってたりするんですよ。黄色い桃と出会うのは小学校の給食で冷凍ピーチが出たりするタイミングとかだし、地理の授業で岡山が桃の生産量でトップじゃないどころかトップ5ですらないということにめちゃくちゃ驚いたりするんですよね。そういう意味で果物ガラパゴスな街だったりします。

さて岡山でぶどうといえば黄緑色のマスカット・オブ・アレキサンドリアや種無しで食べやすいピオーネだったりします。岡山大学の大学生協ビルにもマスカットユニオンとピオーネユニオンがあって、お前らどんだけぶどう好きやねんという感じ。一人暮らしになるとすっかり果物なんて買わなくなるわけですが、岡山の頃はよく食べていました。でも僕が一番好きなぶどうはデラウェアだったりします。あのレーズンの素みたいに小さなぶどうがわしわしついてる奴ですね。甘いんですよ、アレ。果物はかつて水菓子と呼ばれていましたが、デラウェアの甘さを舌に広げればその呼び方もむべなるかなという具合。ピオーネは品種上種が最初からありませんが、デラウェアも薬品処理によって(小さいぶどうに種があると食べにくいからね)種がなくなっていて非常に食べやすいのですヨ。まぁ最近はめっきり果物食べなくなってしまったので食べられるならなんでも食べたいですね。

今日はそんな感じです。

交通事故

せっかく日記ページが有るのにちっとも喋っていないというのは、なんとももったいない。けど、なんでも書いていいとなると何も思いつかないのもモノグサな性分としてはまったく否めない。

というわけで、自動で単語を選択してくれるツールを使ってお題を引っ張り出すことにしました。どこまで続くかわかりませんが。


で、『交通事故』。

左卜全とひまわりキティーズの楽曲「老人と子供のポルカ」の第2番にはこんな歌詞があります。

やめてケレ やめてケレ やめてケレ ジコジコ

やめてケレ やめてケレ ジコジコ パパヤー

ラララ ランラン ララララ ジコジコ

ランランラン ラララ ジコジコ

どうして どうして ジコジコ パパヤー

おお神様 神様 助けて パパヤー

で、この曲が出た当時、1970年の交通事故死者数というのが、16765人。交通戦争という言葉が誕生するのも無理からぬ死にっぷりですね。

結局死傷者、大気汚染といった問題に並んで渋滞という問題もモータリゼーションの最大の懸念事案として第一線を長らく張っており、そのアオリを受けて見事都市から路面電車やトロリーバスが消滅しました。専用軌道を車道に変えたら自由度が上がるので渋滞も減るだろう、という、なんとも甘い考え方です。

自分が今住んでいる京都でもこういう経緯で1978年に市電は全廃されてしまいました。もちろん、一概に路面電車を残すべきだったというのは、レトロスペクティヴが過ぎているか、あるいは復権という、ある意味で極端に革新主義的な発想であるということは考えなければならないでしょう。ただ、京都の交通事情は本当にひどくて(本当にひどい)、交通施策が大してなされないまま中途半端に地下鉄が出来、残りの路面電車は全部バスになってしまいました。路面電車を地下鉄で代替する発想というのは大阪や東京のような大きな都市では可能でしょうが、何本も路線を作れない京都くらいの街では地下鉄なんてものは、やはり大して意味を持つものではなく、長らく大都会であることのアピールに過ぎない存在として凄まじい赤字とトップクラスの運賃(の高さ)に現れてしまっています。京都という街を掘るにあたってかつての平安京やらの遺構のせいでどんどんと掘削費がかかってしまったという話がよく言われますが、沿線の観光地の少なさ、阪急・京阪との妙な融通のきかなさ、京津線を部分廃止させて高額な二重運賃と本数削減で窮地に追い込むという具合に今でもぎくしゃくしています。その上一番観光客が押し寄せる東山通も連日バスが団子状態にひしめきあい、渋滞解消のための路面電車撤廃とはなんとやら、東山三条から京都駅まで酷いときは1時間かかる。ひでえ。

実際のところ、京都の道を歩くと、うわ、よくこんなところ軌道で占拠してたな、というくらいどこもかしこも道が狭いわけで、正直なところ今さら路面電車を復活させたところでかえって混乱を招くことにしかならないのですが、かといってこのまま京都の道路事情をカオスのまま放置するのも、まあ、よくない。交通戦争というか、応仁の乱みたいになってしまいますね。市バスも均一区間での前払いを導入しようとしてたり、ぎりぎり頑張っている風には見えるわけなのですが、微妙な路線は逐次民営にぶん投げたりもしているわけで、自分が京都を出るころには多分解決に一歩も進んでいないでしょう……


全然交通事故関係なくなっちゃった。こんな感じで方向だけ決めて適当に突っ走る感じでやっていきます。そのうち読みやすくなっていくかな?

いつのまに

関西コミティア一般で行ったんですけど、

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おお、載ってる。

この欄って有名じゃなくても載れるのね。誰が推薦したのかしら。身内かなぁ。身内でも嬉しいですね。

ただ惜しむらくはいろいろあってDIYが凍結中なことと、今回出展してないので宣伝にはならなかったこと。継続して出せよと言われたような気がします。

とりあえず1月は出ますが5月は一般でも難しいかも…というか一般で出れたらサークルで出ますよねぇ。

そんな感じです。

名塩ニュータウンのこと

20180918

絵の順番が前後してますね……

おととい、西宮名塩というところに行ってきました。西宮名塩とは西宮のくせに宝塚から行ったほうが近いというふざけた(ほんとうにふざけていると思う)街で、しかもすごい山の中にある。でも、そんなにアクセスが悪いというわけでもないし、なにせ電車も道路もちゃんとしているのでそこまでひどい街ではないと思う。あ、でも、国見台はスカスカですね…

遠藤剛生という建築家がいるらしい。安藤忠雄と同年代で、この人が1990年代後半に建てた集合住宅がとにかく僕の好みなのである。検索したらすぐに出てくるので写真は挙げないけれど、階段や渡り廊下をとにかく多用し、個々の棟も乱雑に配置する。これによって集合住宅という画一性のハンデを背負った建物であっても有機的な町並みが形成され、都市の路地のような光景を生み出している。すごい。

今は住宅事情も、ほぼ二極化といっていいと思う。思うに、とても大規模なマンションか、一戸建てか、という具合。その中間になるような集合住宅群の存在は(一戸ごとに対してのお金がかかるので?)すっかり無視されているような気がする。まあなので一種の郷愁かもしれないんですけど、なんとなくサイバーパンクなので一度見に行ってみるとぐっとくるかもしれません。

正しさについて

20190921

前いたところではいきなり他人の漫画に口出しをする厄介なひとがいて、僕は言われた人が筆を折ってしまうのではないかとずっとヒヤヒヤしていた。

批評というのは、相手がその批評に対して構えをとれる状態でないと成立しないものだと思う。相手が全く意識を向けていないときにそれを行うのは、通りがかったやいま面と向かって話してるひとをいきなり殴るようなものじゃないかなあ、とか考える。もちろん、いきなり殴ってその相手に「弱いなあ、もっと強くなれよ」なんて言うのはまったくよろしくないのだが、(まあ商業みたいな結構パブリックな場やもともと雰囲気としてスパルタ感溢れるとこならずっと身構えてりゃいいんですけど)内輪のゆるふわ空間でそれをされると歴史的に場が凍りつくし、言った側もまた俺なんかやっちまいましたか? みたいになって、最悪である。人のためと言っておきながら、通りざまにバカスカ殴っていては意味がない。もうずっと顔を出していないのでいまどうなってるか見当もつかないけれど、みんなやり過ごせているんですかね。