なめろう・南蛮漬け

 サーモンでなめろうを作った。去年電動チョッパー(ミキサーをひっくり返した感じのやつ)を買って、ミンチ肉とかよく作っていたのでその要領でざっくり魚と薬味を混ぜておいたものをガーッとすると、すぐできる。魚は高いし足が早いので作るのにまあまあ決断が要るけれど、手早いし美味しいし、まな板以外洗わなくていい(トレーで刻んだらまな板もいらないね)しいい料理だ。

 あと、買っといてそのまま帰省してしまった茄子も火を通して南蛮漬けにした。揚げ浸しよりも甘くて美味しい(作り方によります)。最近疲れていたのであまり自炊をしていなかったが、シンクも部屋も少し綺麗にしたのでちょっと気合が入った。こういう感じで、あんまりダレているときの自分を責めたりせず、よし、やるぞ、という時に全力で色々できるようにしたい。ただでさえ人よりも行動できる時間や力がないから……


 元々コミティアで知り合った人たちと作業中に通話をすることがあって、夜を一人で過ごすのがなかなかしんどい自分にとってはかなりありがたかったし、原因なくしんどいときに全然まとまっていない不安なことをつらつら聴いてもらったりとか、しょうもないことで笑ってくれたりしたことが嬉しかった。最近はもう少し色んな人と話している。ただ、自分はなかなかに口下手だし、かと言って人から話を引き出せるような聞き上手でもない。話せそうなときだけ、あるものを全部話してしまうだけになってしまう。ナチュラルに流してくれる相手が多くてありがたいのだけれど、顰蹙を買ってしまったことも多分ある(よくない所をちゃんと教えてくれる人というのはなかなか少ないので、実際の有無はわからない……)。つくづく甘えた人間だということを自覚したうえで、なんとか頑張っていきたいけれど……

 そういうこともあって、今も文章にしたり、漫画にしたりして生きているのだと思う。文や漫画は読み手のテンポで読めるし、興味が遠のけばすぐ距離を置いても話し手が嫌な思いをしなくて済むし、また時間を置いてまた読み出したり、すごく後でまた最初から読んだりできる。いったい何人に届いているのか、ともすれば誰にも届いていないのかもしれないけれど、それでも誰かがそうやって、自分がなんとか形にした考えとかものの見方のことをわかってくれるかもしれないというところにだいぶ救われている。それに、自分の話し下手・聞き下手は多分時間の流れが人より遅いということに尽きると思っているので、人の言葉も文や絵で眺めることが好きだったりする。なんだか文通みたいだ……そうやって、ゆっくりでもいいから何かをお互いに話し合っていけたらいいし、そういうことがやりやすいように自分の内側の何かをもっと相手に届く形にしていけるようになりたい。

 明日もなんとか生きていきたいです。

香川のうどん

 きょうは香川にうどんを食べに行った。高松より西、丸亀よりも西、香川でもだいぶ西の方の観音寺という街のうどん。うどんが出るまでの(ごく短い)間、そういや最近家で素麺と冷麦しか茹でてないなあ、うどんも茹でたいなあ、とか考えていたのだが、いざ出されたうどんを食べるとその考えは一瞬でふっとんだ。うどんはお店で食べるに尽きる。

 四国には車でしか来たことがないけれど、昔しまなみ海道の途中の島で泊まった時、レンタサイクルでちょっとだけ橋を渡ったりしたらすごく楽しかった。あと、四国カルストにも行ってみたかったりもする。いい自転車に乗って、そういうところを気持ちのいい季節に漕いだりできたらすごい楽しいんだろうなあ、とか考えた(四国カルストは高低差がとんでもないけど……)。ここ2年はひたすらパソコンに向かっていたし、趣味……までいかなくとも別の楽しいこともあったら嬉しいし、もうすこし体調もよくなるかもしれない。もうちょっと生活が安定して、世の中も落ち着いてきたらそういうことを考えたい。なんだか打っててしんみりしてきます。早くなんとかなってほしいですし、できるだけ悪化の片棒を担いだりしないようにしたい(し、犯人探しもしたくない)。


 例によって人付き合いがものすごく苦手なので、インターネットでの人間関係でなんとか人生を繋ぎ止めている部分が大きい。その一方で、優劣をつけているようで申し訳なさも感じつつ、やっぱりインターネットで形成できる関係のほとんどは限度があるというか、やっぱり実際に会って話したりしないとわからない部分というものがどうしても出てくるような気もする。結局毎回この結論に落ち着いてしまうけれど、とにかく物凄く難しい。

 自分を発信する目的でネットを使い始めたのは大学に合格してからで、その時は「同じ大学」だったり「同じ年代」というようなところで接点ができて関わっていくことが多かった。ただ、大学や年齢が同じだったところで、実際のところは学部や講義が同じなことは少なく、もっぱら「同じ」という属性でだけ関わりが続いていった。もちろん何度かいわゆる「オフ」で顔を合わせることもあったけれど、一対一で話し合うようなことは少なく、そのうちちょっと価値観が違うとか、すこし嫌なところが見えた、というような理由でお互いフォローを外したり、ブロックしてしまったりというようなことになって、結局大学を出る頃には学内で仲のいい人はほとんど研究室かサークルの人々だったように思う。

 言うまでもなく自分の狭量さとか、場に合わせて話を繕う事の下手さにも起因しているのだけれど、そのくらい関係構築が下手な人間が辛うじて知り合いを作っていけたのは、ひとえに毎週研究室やサークルに行っていたことに尽きる。別に、研究とか愛好という形で多少興味のあるものを共有しているとはいえ、自分の好きなものを全く知らないことも、特に聞いてくれないことも多い。自分も相手の好きなものに鈍感だったり、さして興味もなかったりすることもある。その上、何度か仲違いしてしまったこともある。それでもまたサークルに行けばその人と顔を合わせるし、お互い(派閥ができるくらい大きな集団ならともかく)無視しあっているのもなんだか変なので、ぎこちなく、互いに謝ったりするわけでもなく、人の話に乗っかるような形でまた話をしていって、いつのまにかなし崩しでそれなりの付き合いになっていったりした。

 個人的な感覚に過ぎないけれど、定期的に直接顔を合わせる(合わせざるを得ない)ような集団で作られていく関係と比べると、やっぱりどうしても文面を通じてのコミュニケーションは人に対する評価を比較的0か100かで下してしまいがち(相対値で、かつグラデーションなので、20:80とかかもしれない)になるような気がする。もちろんなし崩しで関係ができていくというのも、本当に精神が削られるほどの実害があるのに中々離れられない、というような場合においてはあまりプラスには働かない。だからこの話は優劣の話ではなくて、あくまでこういう特性があって、比較的対話は文面よりも(この区分もあんまりよくないかも)コミュニケーションの深度があって、少なくとも自分はネットの外側での対話的な交流を必要としている、というだけの話。ブツン、と切れてしまう関係というのは、後腐れがないとも言える一方で、すこし歩いて振り返ってももう取り戻せなかったりもする……

 とはいうものの、最近は比較的個人の力で配信であったり、通話だったりがやりやすくなってきた。対話のツールとしては物凄く有用なのではないかと思う。もちろん、それでもお互い一方的に離れ合うことはやっぱりやりやすいし、これも身も蓋もない話だけれど、直接顔を合わせるような場所であっても、そこから離れてしまえば、結局対面であろうと関係は終わらせやすい。甘えた話だけれど、自分はどうしても人をいやな気持ちにしてしまいがちな人間で、そのくせ離れていくことにダメージを受けてしまったりする。しおらしくしている暇があるなら身の振りを見つめるべきだ、というのは本当にそうなのだけれど、よかったら誰かに自分の振る舞いを直す手伝いをして欲しかったりもする。要するに、よくないことをしたときに、それはよくないんじゃあないか、と言ってくれる関係。変な言い回しだけど、自分も好きで独りよがりをやっているつもりはないので、できればそうやって沢山の人といろんな話をしていけたら、一つの幸せだと思う。

 明日もなんとか生きていきたいです。

回鍋肉

 すごい久々に回鍋肉を作った。クックドゥとかじゃなくて(でも結局クックドゥがうまかったりするんだよね)豆板醤と甜麺醤を自分で入れる、アレ……

 ワンルームのキッチンは本当に狭く、あの広さで手際よく料理ができる人が羨ましい。自分の部屋はしかも1Kで廊下にキッチンがひっついているアレなので、純粋にキッチンの広さが作業空間の広さになる。まな板もはみ出るし鉄鍋はシンクに入らない。料理する人に優しい住宅になってほしい。というか、基本的に生活をするのに工夫が必要になる住戸というのは、そもそも人が住むべき場所ではないのではないか……

 そういうこととか、単純に工程が増えて面倒ということで、これまで炒めものをする時に油通しを完全にサボっていた。今日からしばらく夏休みなので、せっかくだし面倒なことでもするか……とはじめて油通しをした。確かに、キャベツとか油でスケスケにならずにちゃんと淡い黄緑でシャキシャキのまんま仕上がった。すごいなこれ。完全にナメていました。こうやってあんま気張らずに料理の質をあげていけたらいいな……と思っている。


 人恋しくてインターネットをやっているけれど、いやなこともまあまあ多い。とは言っても、直接自分が攻撃されたとか、そういうことは(やっぱり人付き合いの狭い人間というのもあり)あまりなく、どちらかと言えば人のあまり優しくない感情を目にして、それを自分に向けられたらどうしよう、というようなことを考えて勝手に落ち込むことが多い。困った習性だ……とは言え、何かにつけて怒ってしまうことは、すこし遡れば自分だってよくやっていたことであるし、今とここだけで人となりを判断してしまうのも、変化とかを否定しているようだし、結局自分までひっくるめて人を嫌いになってしまうだけなのでそれもよくないな……と思う。

 何か出来事があると、それについて意見を言わなければならない、という観念があったような気がする。最近はあんまり景気がよくなさそうなこともあって、いやな出来事とか、難しい出来事も多い。それに、自分はあまり色んなものを積極的に見聞きしないから、手元の材料もない。そういうときにちゃんと、何か言えるほど知りません、考えたけどわかりません、と言えることって、実は物凄く大事なことなのではないかと最近は思い始めている。何か論評みたいなものを無理やり口から出して、それで終わり、とするよりずっと何かを考えることに対して真摯なんじゃないのかなと思う。それでもうっかりすぐ結論づけようとしてしまうことも多いし、知りません、と言ってその後何も考えないこともある。とにかく、何かについて考えるというのは、自分には凄く難しい。難しいけれど、無下にすることなく付き合っていけたらいいなと考えている。

 明日もなんとか生きていきたいです。

豚キムチ

 豚キムチ作ってるwebサイトがあったので、自分でも作った。……のだが、勢い余ってものすごい量を作ってしまったし、具材も沢山入れたのでキムチなんだかキムチ風の炒めものなんだかよくわからない感じになった……美味しかった(この手の料理、塩加減とか間違えなければ美味しくならないわけがないとは思うが……)のでよかったです。


 事あるごとに毎回言ってるのでもはやいつもどおりというフシすらあるが、なんとなく気の合う人というのに生まれてからずっと恵まれていない。もちろん全員が全員冷たかったわけではなくて、例えば高校の頃とか、大学の頃、今趣味で関わりがある人達については出会えてよかったと思えるし、出会わず仕舞いだったらどうやって生きてきたんだろうかとはまあまあ本気で思っている。ただそれでも、大学で地元を離れて移り住んで、就職でさらにそこも離れてとなると、やっぱり去る者は日々に疎しということで(もともと携帯より対面で話し合うことが多かったし)どんどん今何やっているのかわからなくなっていく。

 自分と人の間にはとにかく色んな壁がある。それは単に物理的な距離だけではなくて、例えば自分があまりいろんな事を知らないし知ろうともしないことで愛想を尽かされるのが怖いとか、結構思っていることをすぐそのまま言ってしまったらどうしようというところとか、心理的な部分もすごく大きい。気にしないと言ってくれる人も結構いて、それは本当に嬉しいことではあるんだけれど、やっぱり昔人に別れ際言われてしまったことがずっと張り付いていて、どこまでいっても人に負担をかけてしまうなあ(そんでもって自分は人の負荷を背負えないので均衡が取れてないなあ)とぐるぐる考えてしまい、なんというか手放しには喜べない。まあまあ酷い事を言われたなと思うけど、酷い人間だから忘れよう、というやり方ではいずれ自分もそうやって忘れられていくような気がする。

 そういうことが怖くて自分から関係を作ることをほとんどやらなくなってしまったけど、それでも必要ないからやっていないわけではないし、ふと自分と人との関わりがわからなくなっていってものすごい不安になったりする。それでも動けないから、どこまでも受け身のやり方になっていく。要するに自分で背負えない人間ということで、ものすごくせこい。とにかく、一度何かやってみて、それで何を傷つけて何に傷ついたか認識するところから始めないといけない、とは思っているけれど、それをやるほど気持ちにも余裕がなくて、気がついたら何年も経っていったりする。なんというか、どうなってしまうんだろうか……

 明日もなんとか生きていきたいです。